“油小路の変”で壊滅した御陵衛士(伊東甲子太郎一派)が、初めから薩摩と通じていて、“近藤勇暗殺計画”は両者が共謀しての事…と、信じる人は多い事であろう。

この説は、油小路で新撰組に襲われた御陵衛士の中で

加納鷲雄
富山弥兵衛
三木三郎

の3人が、薩摩藩二本松藩邸に逃げ込んだ事に端を発しているものと思われる。

しかし、明治維新後、加納鷲雄は

“あの時、行き場が無く、薩摩藩には知った人も居なかったが、薩摩藩邸は近場に在ったので助けを求めた。”

という内容で語っている。

また、この事件で助けを求めて来た3人を受け入れた薩摩藩側で応対したのは、
後に陸軍中将・桐野利秋となり、西南の役で西郷に味方し戦死した
“中村半次郎”
だったのだが、
中村の日記には

“逃げ込んで来た3人は、伊東甲子太郎が『新撰組同士』の争いによって殺されたので、死体を回収しに行くと、無体にも新撰組が切り掛かって来たので…。”

という内容の記述がある。

『新撰組同士』という言葉から察するに、中村半次郎は、逃げ込んで来た3人を完全に新撰組と認識していたようだ。

双方の記録をひもとくと、従来から言われていた、
『御陵衛士~薩摩ライン』
は疑わざるを得ないだろう。


歴史は常に動いている。