不思議な事がある。

文久2年(1863年)2月5日に発表された浪士組編成名簿には、“斎藤一”あるいは“山口一”という名は見られない。

そして、同年3月10日の会津中将への嘆願書に、
初めて“斎藤一”の名が出て来る。

つまり、斎藤一は同年2月23日に浪士組が京に到着してから、京残留を決めた芹沢鴨や近藤勇等が会津中将に泣きつくまでの間に、京で入隊したと考えられるのだが、
ここに興味深い証言が有る。

『浪士文久報国記事』…浪士組結成以前から近藤勇の道場・試衛館に出入りしていた永倉新八の回顧録なのだが、
なんと、ここには浪士組募集以前に斎藤一は試衛館で稽古していたと書かれているのだ。

『藤田家の歴史』という、斎藤一の子孫の家伝では、19歳の時(文久2年当時)には、旗本家中の者を斬ってしまい、京都の聖徳太子流・吉田道場に潜伏し、そこで師範代にまでなったとされているのだが、それから一年経たぬうちに江戸の試衛館の門人になったというのだろうか?

また、元・新撰組で御陵衛士を経て、やはり明治維新後まで生きた阿部十郎も、

「近藤の一番弟子が沖田総司、次が斎藤一。流派は違うが永倉新八は沖田より少し稽古が進んでいた…。」

と語っていたという。

二人の証言が正しければ、何故、斎藤一は文久3年2月4日の浪士組募集時に行動を共にしなかったのであろうか?

また、斎藤一の剣術について、大抵は
“一刀流”
少数意見として
“無外流”
が挙げられるが、
なぜか
“聖徳太子流”
が挙げられる事はほぼ無いと言っても良いであろう。

謎の多い人物である…。


歴史は常に動いている。