文久3年(1863年)3月10日
京都で一つの動きが有った。
同年2月4日に、14代将軍・家茂の上洛に伴う京の治安維持を目的として、江戸・伝通院で募集に応じて集まった、200人を超える『浪士組』が、
2月23日に京都郊外・壬生村に入ったものの、庄内生まれの思想家・清川八郎の画策により、江戸へ帰還する事となってしまう。
しかし、これに反対した17人の有志が、新設された治安組織・京都守護職に就いたばかりの会津中将・松平容保に庇護を求める嘆願書を出していた。
嘆願の日付は
文久3年(1863年)3月10日。
この嘆願書に名を連ねていた
“斎藤一”
こそが、かつての山口一だった…。
この時、一の年齢は20歳。
歴史は常に動いている。
京都で一つの動きが有った。
同年2月4日に、14代将軍・家茂の上洛に伴う京の治安維持を目的として、江戸・伝通院で募集に応じて集まった、200人を超える『浪士組』が、
2月23日に京都郊外・壬生村に入ったものの、庄内生まれの思想家・清川八郎の画策により、江戸へ帰還する事となってしまう。
しかし、これに反対した17人の有志が、新設された治安組織・京都守護職に就いたばかりの会津中将・松平容保に庇護を求める嘆願書を出していた。
嘆願の日付は
文久3年(1863年)3月10日。
この嘆願書に名を連ねていた
“斎藤一”
こそが、かつての山口一だった…。
この時、一の年齢は20歳。
歴史は常に動いている。