嘉永7年11月4日の朝、船底から突き上げる様な衝撃を感じたという
下田に停泊中のロシア海軍フリゲート艦“ディアナ”は、その約20分後に津波に襲われた。
何度も襲来した津波により湾内には渦が生じ、ディアナは波に揉まれ大きく破損したという。
陸地では津波到達前に、各地で轟音が聞こえたとか。
特に、駿河湾が見える地域には、
“大砲の如き響と共に
海上七八里
瀬の海辺に水煙天に張り
水面凹となり
大水 輪をなして四方に開ける…”
という記録が残されている。
駿河湾内で海水面が盛り上がり、陸地の方に押し寄せる様子を伝えた物と思われる。
この時の津波の記録は、房総(現・千葉県)から土佐(現・高知県)にまで残されているが、
特に伊勢・志摩半島の津波はとりわけ高く、
七丈五尺(約23m)にまで達したそうである。
また、河川の多かった名古屋では、津波が河川を逆流して行き
4000軒以上の家屋を破壊したという。
この日の地震~津波の被害のあった所から推定される震源は、駿河湾沖と考えられ、
後に、『安政東海地震』と呼ばれるようになる。
歴史は常に動いている。
下田に停泊中のロシア海軍フリゲート艦“ディアナ”は、その約20分後に津波に襲われた。
何度も襲来した津波により湾内には渦が生じ、ディアナは波に揉まれ大きく破損したという。
陸地では津波到達前に、各地で轟音が聞こえたとか。
特に、駿河湾が見える地域には、
“大砲の如き響と共に
海上七八里
瀬の海辺に水煙天に張り
水面凹となり
大水 輪をなして四方に開ける…”
という記録が残されている。
駿河湾内で海水面が盛り上がり、陸地の方に押し寄せる様子を伝えた物と思われる。
この時の津波の記録は、房総(現・千葉県)から土佐(現・高知県)にまで残されているが、
特に伊勢・志摩半島の津波はとりわけ高く、
七丈五尺(約23m)にまで達したそうである。
また、河川の多かった名古屋では、津波が河川を逆流して行き
4000軒以上の家屋を破壊したという。
この日の地震~津波の被害のあった所から推定される震源は、駿河湾沖と考えられ、
後に、『安政東海地震』と呼ばれるようになる。
歴史は常に動いている。