延元2年(1337年)、南朝の後醍醐天皇に拝謁した北条時行は、
朝敵免除の綸旨(りんじ)を受けていた。
綸旨(りんじ)とは、太政官の要職に就く者達、複数の承認を得て発行される勅令(ちょくれい)とは違い、令外官(りょうげのかん※律令の規定からは外れる特務部署)である蔵人頭(くろうどのとう)が天皇の意を受けて発する命令である。
南朝に太政官を形勢する程の豊富な人材が居なかった為に、綸旨の発給となったのだろう。
また、戦力に於いても、足利尊氏と北朝に対抗する為に、北条得宗家の遺児であったとしても、背に腹は換えられない事情も有ったものと思われる。
翌年、延元3年(1338年)1月20日から1月29日、美濃国青野原(現・岐阜県大垣市)における戦いで、足利方(北朝)の土岐頼遠を敗った南朝の北畠顕家の軍勢の中に、北条時行の姿も有った。
歴史は常に動いている。
朝敵免除の綸旨(りんじ)を受けていた。
綸旨(りんじ)とは、太政官の要職に就く者達、複数の承認を得て発行される勅令(ちょくれい)とは違い、令外官(りょうげのかん※律令の規定からは外れる特務部署)である蔵人頭(くろうどのとう)が天皇の意を受けて発する命令である。
南朝に太政官を形勢する程の豊富な人材が居なかった為に、綸旨の発給となったのだろう。
また、戦力に於いても、足利尊氏と北朝に対抗する為に、北条得宗家の遺児であったとしても、背に腹は換えられない事情も有ったものと思われる。
翌年、延元3年(1338年)1月20日から1月29日、美濃国青野原(現・岐阜県大垣市)における戦いで、足利方(北朝)の土岐頼遠を敗った南朝の北畠顕家の軍勢の中に、北条時行の姿も有った。
歴史は常に動いている。