寛仁3年(1019年)に謎の武装組織によって対馬・壱岐から拉致された島民が、この武装組織を殲滅した高麗水軍によって救出され、5箇月後に大宰府に送り届けられたわけだが、正式な国交が無かった日麗関係はどうなったのか?
これは、正確な情報が無く、判らないと言うしかない。
それ故、様々な考え方ができるのも事実である。
日本は遣唐使廃止以来、中国王朝並びに半島の国々との交渉を絶ち、900年代に入ってからも、半島から来た使者に対し国交拒絶の回答をしていた。
これは、五代十国時代に突入し、いくつもの国・王朝が乱立していた大陸の混乱を警戒した為とされている。
この『刀伊の入寇』の一件から、日麗関係が軟化し、民間レベルでは通商が活発化したという話がある一方で、朝廷は高麗水軍の力に警戒を強めたとも言われている。
少なくとも、朝廷は高麗と正式な国交を開かなかった事だけは事実である…。
歴史は常に動いている。
これは、正確な情報が無く、判らないと言うしかない。
それ故、様々な考え方ができるのも事実である。
日本は遣唐使廃止以来、中国王朝並びに半島の国々との交渉を絶ち、900年代に入ってからも、半島から来た使者に対し国交拒絶の回答をしていた。
これは、五代十国時代に突入し、いくつもの国・王朝が乱立していた大陸の混乱を警戒した為とされている。
この『刀伊の入寇』の一件から、日麗関係が軟化し、民間レベルでは通商が活発化したという話がある一方で、朝廷は高麗水軍の力に警戒を強めたとも言われている。
少なくとも、朝廷は高麗と正式な国交を開かなかった事だけは事実である…。
歴史は常に動いている。