寛仁4年(1020年)、高麗の鄭子良が帰国した後、大宰権帥の任期を終えた藤原隆家が帰京すると、都で天然痘が流行したという。

刀伊と交戦した隆家が入京してからの事だった為に、大陸から刀伊が持ち込んだ病を隆家が持ち帰ってしまったと噂されたが、実際のところは、その感染経路は不明である。

大宰権帥の後任は、あの武装組織との戦いにおける恩賞の件で、当初は反対の立場を取っていた中納言・藤原行成(後世、書家として三碩の一人にも数えられる)であった。

万寿4年(1028年)12月1日、この藤原行成と共に、隆家の政敵であったあの藤原道長が同日に亡くなったという。

道長の死の話題で持ち切りとなった京では、行成の死はほとんど話題にならなかったとか。

長暦2年(1038年)には、当時の大宰権帥・藤原実成が、太宰府天満宮の別当寺で菅原道真の霊廟でもあったという安楽寺との対立により解任され、それに伴い、隆家は三度目の大宰権帥就任となった。



しかし、長久3年(1042年)に辞任。

寛徳元年(1044年)、“正二位”前中納言という高い官位で66歳で亡くなったという。


歴史は常に動いている。