寛仁3年9月、高麗水軍が救出した
日本人捕虜259人を伴って、鄭子良(ていしりょう?)という名の使者が大宰府にやって来たという。

翌、寛仁4年(1020年)2月、鄭子良は大宰府から高麗東部方面の役所・安東護府への書状を持って帰国の途に付いた。

この時、大宰権帥・藤原隆家は、高麗への感謝の意であろう。
黄金を持たせたとか。

これは『高麗史』の顕宗王の項目に記されている。

因みに京の朝廷は、このやり取りには関わっていなかったようだ。

高麗で北東部の異民族への蔑称として使われた言葉

“Toi”

に、日本では

“刀伊”

という字を当て、この一連の事件を

『刀伊の入寇』

と呼んでいる。

義務教育の歴史教科書では、僅か1~2行の記述のみで片付けられているが、これは平安時代に起こった大規模な外敵襲来であった。


歴史は常に動いている。