寛仁3年(1019年)4月12日、大宰権帥・藤原隆家を中心とする武士団との交戦の後、捕らえられた敵の残存二人。

そして、同4月13日、肥前国松浦で源知が率いる武士団との交戦の後に捕らえられた敵の残存一人。

合計三人。
いずれも高麗人であったという。

では、“敵”は高麗正規軍だったのか?

ここからがまた謎の始まりである。

捕らえられた三人が言うには、

“自分達はToiに捕らえられた高麗人であり、今回の日本への攻撃をした武装組織は高麗が主体の物では無い。”

との事だとか。

はたしてこの証言を鵜呑みにして良いのかどうか、難しいところである。

因みに、彼等の言う

“Toi”

と発音するものは、高麗で北方民族を指す差別用語のような物だったらしい。

古代中国王朝で言う

“東夷”

を連想させる発音だが、その意味が同じであるかどうかは定かでは無い。

高麗から見た北方民族という話が本当だとすれば、契丹(きったん)族が建国した
“遼”
を指す可能性も考えられる。

ただし、“遼”という国もまた、複雑な内部事情を抱えていたので、一概には言えないのも事実としては有る…。

もう少し深部を探ってみたい。


歴史は常に動いている。