博多周辺まで押し寄せた謎の武装組織相手に、
大宰権帥・藤原隆家が率いた武士団は、よく戦ったとは言え、苦戦したようだ。

やはり戦争準備がされていない所に、
突如3000人の武装組織が現れたのでは、後手に回らざるを得ない。

急遽募った九州の武士団も、数の上では劣っていたようである。

この戦いに参加し、記録に残る名は

・大蔵種材(既に引退していた元・大宰官人)
・大蔵光弘
・藤原明範
・藤原助高
・藤原友近
・藤原致孝
・平為賢
・平為忠
・財部弘近
・財部弘延
・紀重方
・文屋忠光
・多治久明

といったところである。

寛仁3年(1019年)4月11日、全体数で劣る藤原隆家は、全員で敵の一部隊ずつを確実に殲滅して行く
各個撃破の作戦を取り、
敵をなんとか海上に押し戻したらしい。

そして、翌日もまた水際で同様の戦いが繰り返されたという。

寛仁3年(1019年)4月12日、朝廷はまだこの戦いの事を何も知らない…。


歴史は常に動いている。