寛仁3年(1019年)3月27日、
約50隻の船団が対馬に現れ、分乗していた約3000人が島民を殺戮し、家屋に火を着けて回ったという。

この段階では、何者の仕業であるのか全く判らず、対馬は蹂躙されてしまった。

時の天皇は僅か12歳の後一条天皇、
権勢を誇った藤原道長は、
人臣の最高位・太政大臣を辞し、
長男・頼通(よりみち)に次代を託していた…。


歴史は常に動いている。