『吾妻鏡』によると
範頼が伊豆修善寺へ流罪となってから7日後、
建久4年(1193年)8月24日
“岡崎義実(おかざきよしざね)”
“大庭景義(おおばかげよし)”
という、二人の御家人が出家したという。
老齢が理由とされているのだが、その後、奇妙な記述がある。
大庭景義が頼朝に対し、
“鎌倉殿の挙兵の時より大功ある身でありながら、疑いをかけられて鎌倉から追放され、失意のまま三年を過ごしました…。”
という内容の書状を出し、
許されたというのだ。
ここに書かれた“疑い”について、詳しい内容は全く書かれていない。
想像の域を出ないのだが、この二人の御家人は、
“頼朝を排し、範頼を担ごう”
とした勢力に名を連ねていたのではなかろうか。
現役の御家人が出家するのは、単なる隠居ではなく、失脚を意味すると言われているのだが…。
大庭景義は、頼朝挙兵の時から付き従って来たが、その弟・景親は平家方に付いたという。
そして源平の合戦の最中、弟・景親が敗れて捕われた時、頼朝は大庭景義に対し、弟の助命嘆願をするか否かを尋ねたという。
この時、景義は全てを頼朝に委ねると答え、弟・景親は死罪となったらしい。
弟を切り棄ててまでして頼朝に付き従って来た忠臣・大庭景義を追放した理由を、
『吾妻鏡』がはっきりと書かないところがいかにも不可思議である。
歴史は常に動いている。
範頼が伊豆修善寺へ流罪となってから7日後、
建久4年(1193年)8月24日
“岡崎義実(おかざきよしざね)”
“大庭景義(おおばかげよし)”
という、二人の御家人が出家したという。
老齢が理由とされているのだが、その後、奇妙な記述がある。
大庭景義が頼朝に対し、
“鎌倉殿の挙兵の時より大功ある身でありながら、疑いをかけられて鎌倉から追放され、失意のまま三年を過ごしました…。”
という内容の書状を出し、
許されたというのだ。
ここに書かれた“疑い”について、詳しい内容は全く書かれていない。
想像の域を出ないのだが、この二人の御家人は、
“頼朝を排し、範頼を担ごう”
とした勢力に名を連ねていたのではなかろうか。
現役の御家人が出家するのは、単なる隠居ではなく、失脚を意味すると言われているのだが…。
大庭景義は、頼朝挙兵の時から付き従って来たが、その弟・景親は平家方に付いたという。
そして源平の合戦の最中、弟・景親が敗れて捕われた時、頼朝は大庭景義に対し、弟の助命嘆願をするか否かを尋ねたという。
この時、景義は全てを頼朝に委ねると答え、弟・景親は死罪となったらしい。
弟を切り棄ててまでして頼朝に付き従って来た忠臣・大庭景義を追放した理由を、
『吾妻鏡』がはっきりと書かないところがいかにも不可思議である。
歴史は常に動いている。