建久4年5月29日未明、富士裾野で曽我兄弟の仇討ちが決行されてから、さほど時間のたたぬうちに鎌倉の街中を駆け巡った、
『鎌倉殿(源頼朝)が討たれた!』
という噂(結果としては誤報)の出所が、
鎌倉留守居役を勤めていた頼朝の異母弟・範頼である可能性がある事は先のブログで書いたが、その深淵(とある陰謀の可能性)を探ってみたい。
この“陰謀”だが、無論、範頼一人で立案した物では無い。
結論から言ってしまえば、
“頼朝を排し、範頼を担ごう”
とした勢力が存在したという可能性があるのだ。
そして曽我兄弟は、あの日、知らず知らずのうちに、この計画の歯車の一部として利用されていた可能性まで出て来たのである。
曽我兄弟の仇討ちは、武士の誉れとして完結させる風潮が高く、これをクーデター計画の一部ではないかと論ずる事は長く“はばかられて”来た。
しかし、実は不自然な点も有る。
“武士の誉れ”の物語を崩してしまうかも知れないが、次回からこの事件当日の事を精査してみたい。
歴史は常に動いている。
『鎌倉殿(源頼朝)が討たれた!』
という噂(結果としては誤報)の出所が、
鎌倉留守居役を勤めていた頼朝の異母弟・範頼である可能性がある事は先のブログで書いたが、その深淵(とある陰謀の可能性)を探ってみたい。
この“陰謀”だが、無論、範頼一人で立案した物では無い。
結論から言ってしまえば、
“頼朝を排し、範頼を担ごう”
とした勢力が存在したという可能性があるのだ。
そして曽我兄弟は、あの日、知らず知らずのうちに、この計画の歯車の一部として利用されていた可能性まで出て来たのである。
曽我兄弟の仇討ちは、武士の誉れとして完結させる風潮が高く、これをクーデター計画の一部ではないかと論ずる事は長く“はばかられて”来た。
しかし、実は不自然な点も有る。
“武士の誉れ”の物語を崩してしまうかも知れないが、次回からこの事件当日の事を精査してみたい。
歴史は常に動いている。