建久4年(1193年)5月29日未明、
富士裾野で巻狩り中に源頼朝が討たれたという“誤報”を聞いた頼朝の妻・政子は嘆き悲しんだという。
南北朝時代に足利方により成立したという史書
“保暦間記(ほうりゃくかんき)”には、
かつて平家追討に尽力し、この時は鎌倉で頼朝の留守を預かっていた
弟・範頼が政子に対し
『鎌倉殿が倒れても、自分が控えているので御安心下さい。』
と言った言葉が、頼朝に対する謀叛の意思有りと見做され、
その後に流罪、そして誅殺されたと書かれている。
それにしても、この程度の言葉尻を捉え、
義経と違い逐一頼朝に報告しながら軍を動かし、頼朝から忠実なる弟として評価されていた範頼を排除した上に誅殺してしまうものであろうか?
実は、曽我兄弟の仇討ち決行からあまりにも早かった鎌倉の街中で噂になった
『頼朝が討たれた!』
という“誤報”の出所は、
この範頼だったのではないかという疑いが有るのだ。
そしてその背後には、深い闇が有ったと思われる…。
歴史は常に動いている。
富士裾野で巻狩り中に源頼朝が討たれたという“誤報”を聞いた頼朝の妻・政子は嘆き悲しんだという。
南北朝時代に足利方により成立したという史書
“保暦間記(ほうりゃくかんき)”には、
かつて平家追討に尽力し、この時は鎌倉で頼朝の留守を預かっていた
弟・範頼が政子に対し
『鎌倉殿が倒れても、自分が控えているので御安心下さい。』
と言った言葉が、頼朝に対する謀叛の意思有りと見做され、
その後に流罪、そして誅殺されたと書かれている。
それにしても、この程度の言葉尻を捉え、
義経と違い逐一頼朝に報告しながら軍を動かし、頼朝から忠実なる弟として評価されていた範頼を排除した上に誅殺してしまうものであろうか?
実は、曽我兄弟の仇討ち決行からあまりにも早かった鎌倉の街中で噂になった
『頼朝が討たれた!』
という“誤報”の出所は、
この範頼だったのではないかという疑いが有るのだ。
そしてその背後には、深い闇が有ったと思われる…。
歴史は常に動いている。