“吾妻鏡”によると、
建久4年(1193年)5月28日の深夜、曽我兄弟が征夷大将軍・源頼朝主催の富士裾野での巻狩り現場内の工藤祐経寝所に切り込み、その流れで弟・五郎時致が頼朝の寝所にまで押し入ってから程なく、
5月29日未明、鎌倉の街中を驚愕すべき噂が駆け巡ったという。
『鎌倉殿(源頼朝)が巻狩り中に討たれた!』
といった内容だったそうだ。
実のところ、頼朝は無事であったのだが、問題は曽我兄弟の切り込みから鎌倉に情報が届き、街中で噂になるまでの時間の異常な早さである。
建久4年(1193年)5月29日未明という事は、現代であれば6月末頃の日の出前(まだ暗い時間)
午前4:00頃であろう。
巻狩りが行われていた富士山南西部の裾野(現在の静岡県富士宮市)から鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)までは、
直線距離ならば約60Km程である。
しかし、当時は静岡県西部から神奈川県東部までを一気に横断するような東名高速や国道246号線は無く、自動車も存在しない。
ましてや暗がりの中、箱根~足柄峠~丹沢山渓の山を越えなければならない状況で、
これ程の早さで情報が伝わるとは考えにくい。
つまりこの時、富士裾野で“事”が起こるのを知っていた人物が鎌倉に居て、頃合いを見計らって噂を流した疑いが有るのだ。
ここで、全くもって意外な人物の名が浮上して来る…。
歴史は常に動いている。
建久4年(1193年)5月28日の深夜、曽我兄弟が征夷大将軍・源頼朝主催の富士裾野での巻狩り現場内の工藤祐経寝所に切り込み、その流れで弟・五郎時致が頼朝の寝所にまで押し入ってから程なく、
5月29日未明、鎌倉の街中を驚愕すべき噂が駆け巡ったという。
『鎌倉殿(源頼朝)が巻狩り中に討たれた!』
といった内容だったそうだ。
実のところ、頼朝は無事であったのだが、問題は曽我兄弟の切り込みから鎌倉に情報が届き、街中で噂になるまでの時間の異常な早さである。
建久4年(1193年)5月29日未明という事は、現代であれば6月末頃の日の出前(まだ暗い時間)
午前4:00頃であろう。
巻狩りが行われていた富士山南西部の裾野(現在の静岡県富士宮市)から鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)までは、
直線距離ならば約60Km程である。
しかし、当時は静岡県西部から神奈川県東部までを一気に横断するような東名高速や国道246号線は無く、自動車も存在しない。
ましてや暗がりの中、箱根~足柄峠~丹沢山渓の山を越えなければならない状況で、
これ程の早さで情報が伝わるとは考えにくい。
つまりこの時、富士裾野で“事”が起こるのを知っていた人物が鎌倉に居て、頃合いを見計らって噂を流した疑いが有るのだ。
ここで、全くもって意外な人物の名が浮上して来る…。
歴史は常に動いている。