文治5年(1189年)10月、源頼朝は奥州藤原氏を倒して鎌倉に凱旋した。
建久3年(1192年)3月、あの後白河法王がこの世を去ると、
同年7月12日、これまで大納言や右近衛大将といった官職を辞退してきた源頼朝は、征夷大将軍に任官する。
因みにこの日、朝廷からの勅使に御礼として馬を渡す役を務めたのが、工藤祐経であった。
“勅使”とは“天皇”の名代であるから、これはかなりの名誉職である。
工藤祐経が何か武巧を立てたという記録はどこにも無いのだが、かつて右近衛大将・平重盛に仕え、都の文化をよく理解していたので重用されたとも言われている。
その翌年、建久4年(1193年)5月、もはや国内に敵対勢力の居なくなった源頼朝は、富士山裾野で大規模な狩り“巻狩り”を催す触れを出した。
この巻狩りは、5月8日から6月7日まで予定されていたらしい。
この報を聞いた曽我十郎祐成・五郎時致の兄弟は、
父の仇・工藤祐経も必ず現れると考え、長年の計画を実行する好機とばかりに動き出した…。
歴史は常に動いている。
建久3年(1192年)3月、あの後白河法王がこの世を去ると、
同年7月12日、これまで大納言や右近衛大将といった官職を辞退してきた源頼朝は、征夷大将軍に任官する。
因みにこの日、朝廷からの勅使に御礼として馬を渡す役を務めたのが、工藤祐経であった。
“勅使”とは“天皇”の名代であるから、これはかなりの名誉職である。
工藤祐経が何か武巧を立てたという記録はどこにも無いのだが、かつて右近衛大将・平重盛に仕え、都の文化をよく理解していたので重用されたとも言われている。
その翌年、建久4年(1193年)5月、もはや国内に敵対勢力の居なくなった源頼朝は、富士山裾野で大規模な狩り“巻狩り”を催す触れを出した。
この巻狩りは、5月8日から6月7日まで予定されていたらしい。
この報を聞いた曽我十郎祐成・五郎時致の兄弟は、
父の仇・工藤祐経も必ず現れると考え、長年の計画を実行する好機とばかりに動き出した…。
歴史は常に動いている。