刺客の誤射により落命した河津祐泰の妻は、息子の一萬丸・筥王丸(はこおうまる)を伴い、
相模国曽我荘(現在の神奈川県小田原市東部)の豪族・曽我祐信と再婚する。

その四年後、治承4年(1180年)8月、以仁王の令旨に呼応した源頼朝が打倒平家の為に挙兵する。

この時、伊東祐親や曽我祐信は平家方に加わり石橋山で頼朝軍を敗った。

しかし、一旦房総方面に逃れた頼朝が勢力を拡大し、関東を抑えると、同年中に伊東祐親は捕えられたという。

その身柄は、祐親の娘婿でありながら源氏方に付いていた三浦義澄に預けられた。

『吾妻鏡』によると、三浦義澄の助命嘆願により放免される事になった伊東祐親は、

“過日の行いを恥じる。”

と言って、自害してしまったらしい。

祐親が恥じていたという“過日の行い”というのは、かつて自身の三女・八重姫と頼朝との間に出来た千鶴丸を、平家に知られるのを怖れて殺してしまった事ではないかと言われているが、『吾妻鏡』にはその内容までは書かれていない。

一方、曽我祐信はと言うと、伊東祐親が捕えられた少し後に、自ら頼朝に投降し、その後は頼朝に付き従い、やがては鎌倉幕府御家人となっている。


歴史は常に動いている。