在京中に伊東荘を奪われ、伊東祐親を恨んでいた工藤祐経は、
安元2年(1176年)10月、ついに事を起こす。
伊豆奥野へ狩りに出た伊東祐親の帰りを狙って、工藤祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客として放ったのだ。
しかし、二人の刺客が放った矢は伊東祐親をかすめ、隣の男に当たってしまう。
この時、刺客の矢を受けて命を落としたのは、伊東祐親の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)であった。
二人の刺客は、すぐに伊東祐親方の追手により討たれたという。
刺客の襲撃により命を落とした河津祐泰には、この時、一萬丸と筥王丸(はこおうまる)という二人の子がいた。
この二人の子が、後々、発足間もない鎌倉幕府を揺るがす大事件を起こすのである…。
歴史は常に動いている。
安元2年(1176年)10月、ついに事を起こす。
伊豆奥野へ狩りに出た伊東祐親の帰りを狙って、工藤祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客として放ったのだ。
しかし、二人の刺客が放った矢は伊東祐親をかすめ、隣の男に当たってしまう。
この時、刺客の矢を受けて命を落としたのは、伊東祐親の嫡男・河津祐泰(かわづすけやす)であった。
二人の刺客は、すぐに伊東祐親方の追手により討たれたという。
刺客の襲撃により命を落とした河津祐泰には、この時、一萬丸と筥王丸(はこおうまる)という二人の子がいた。
この二人の子が、後々、発足間もない鎌倉幕府を揺るがす大事件を起こすのである…。
歴史は常に動いている。