『日本書紀』の『斉明紀』によれば、斉明天皇は舒明天皇に嫁ぐ前に、
用明天皇の孫とされる“高向王(たかむくのおおきみ)”に嫁ぎ、
“漢皇子(あやのみこ)”を生んでいたと書かれているわけだが、
もし、大海人皇子と漢皇子が同一人物だった場合、
重大な事実が浮上する。

高向王の祖父・用明天皇に目を向けてみよう。

用明天皇の母は、蘇我稲目の娘であり、蘇我馬子の姉でもある堅塩媛(きたしひめ)である。

という事は、高向王と斉明天皇の間に生まれた“漢皇子”は、蘇我本家の血筋を受け継いでいる事になる。

その漢皇子が大海人皇子の正体だとすれば、
中大兄皇子の一大事だった乙巳の変や白村江の戦いの時、大海人皇子が蚊帳の外に置かれていても不思議では無い。

いや、むしろ当然と言えよう。
なにせ、大海人皇子は“蘇我本家”の血筋の皇子なのだから。

蘇我本家を滅ぼすクーデターや、蘇我本家が目指した全方位外交に逆行する親百済政策による出兵で、蘇我本家の血筋の皇子と行動を共にするわけが無いのだ。

こう考えると、大海人皇子の前半生が『日本書紀』に書かれていない理由が解ると同時に、壬申の乱の時に蘇我系の人々が近江朝から大海人皇子側に寝返ったのも、ツジツマが合う…。

しかし、これはあくまでも推論である。

生まれて以降、どうなったのか判らない“漢皇子(あやのみこ)”と、前半生が判らない大海人皇子の人生を、試しに重ねてみた結果…でしかないが…。


歴史は常に動いている。