何故、大海人皇子があっさりと不破関の封鎖に成功し、東国の兵力を集め、吉野を脱出してから僅か数日で数万の軍勢に膨れ上がったのか?

先ずは正攻法での解析から…。

大海人皇子の領地と言えば良いのか、私有地と言えば良いのか…
“日本書紀”には、
美濃国安八磨郡湯沐令(みののくに・あはちまこおり・ゆうのながし)
という具体的地名が出ている。

大海人皇子は吉野から脱出する直前、ここの管理を任されていた、
多品治(おおのほむじ)
という人物に伝令を走らせ、不破関封鎖を命じたらしい。

この大海人皇子の直轄地は、さほど大きな領地では無いのだか、ポイントとなるのはこれだけでは無い。

かつて、大海人皇子が幼き頃に教育係をしていた氏族・大海氏(おおあまし)の本家は、尾張氏だという。

この尾張氏という氏族は、第八代孝元天皇の曾孫とされる武内宿禰(たけうちのすくね)を先祖とする、古代有力八氏の一つである。

尾張氏は、その名のとおり、現在の愛知県あたりを本拠地としており、東海の雄と呼ばれていたようだ。

この、尾張氏が大海人皇子に味方した件は、日本書紀には一切書かれていないのだが、
次の正史“続日本紀(しょくにほんぎ)”に書かれている。

『壬申の乱の功臣である
尾張宿禰大隅(おわりのすくねおおすみ)は、大海人皇子が吉野から逃れて兵を集めようとした時に、
自宅を行宮(あんぐう)として提供し、
軍備も提供した。』

といった内容である。

日本書紀だけでは判らない、意外な事実…


歴史は常に動いている。