672年7月22日、琵琶湖の南端近くの瀬田川に架かる橋(現在の瀬田唐橋)で、近江朝軍と大海人皇子軍の、最後にして最大の戦いが起こった。

日本書紀によると、
近江朝軍の武将・智尊(ちそん?)は、瀬田橋の途中の板をずらし、押し寄せる大海人皇子軍の兵を川に落とす作戦に出たという。

大海人皇子軍は攻めあぐねていたようだが、
大分稚臣(おおわけのわくご)という武将が、近江朝軍がずらした橋の板を動かす隙も無い程の素早さで斬り込み、ついに勝利を決定的にしたらしい。

大友皇子は近江大津宮を脱出し、摂津山崎まで逃れたが、
7月23日、ここでついに自害したという。

こうして、壬申の乱は大海人皇子側の勝利で幕を閉じたわけであるが、
この勝利にはいくつか特筆すべきポイントがあった…。


歴史は常に動いている。