671年末、天智天皇が崩御する。
この時、東宮皇太弟であった大海人皇子の姿は既に近江宮に無く、
その政治的実権は、即位したかどうかは不明であるが、
太政大臣・大友皇子が握ったものと思われる。
翌672年5月、吉野で隠棲していた大海人皇子の下に、近江宮での不穏な動きの情報がもたらされる。
大友皇子が天智天皇陵築造の為に人を集めたというのだが、その人々に武器を持たせたというのである。
更に、近江から飛鳥にかけての街道が監視され、吉野への物資供給が妨害されている事までもが明らかになったという。
事ここに至っては、大海人皇子も動かざるを得なくなったようだ。
672年6月22日、大海人皇子は美濃へ使者を派遣し、不破関の封鎖を命じたという。
そして僅か十数人で吉野を発つと、近江に残っていた自身の皇子達と合流しつつ、
6月27日には伊勢湾岸のルートで不破関近くの野上に到着。
ここに行宮(あんぐう)を設けたという。
それにしても、近江から東国への玄関口・不破関の封鎖を命じたのは、既に近江朝を離れ隠棲していた大海人皇子だったのだが、明らかに近江朝への敵対行動であるこの命令に、美濃や尾張の豪族は何故すんなりと従ったのか、おわかりであろうか…?
歴史は常に動いている。
この時、東宮皇太弟であった大海人皇子の姿は既に近江宮に無く、
その政治的実権は、即位したかどうかは不明であるが、
太政大臣・大友皇子が握ったものと思われる。
翌672年5月、吉野で隠棲していた大海人皇子の下に、近江宮での不穏な動きの情報がもたらされる。
大友皇子が天智天皇陵築造の為に人を集めたというのだが、その人々に武器を持たせたというのである。
更に、近江から飛鳥にかけての街道が監視され、吉野への物資供給が妨害されている事までもが明らかになったという。
事ここに至っては、大海人皇子も動かざるを得なくなったようだ。
672年6月22日、大海人皇子は美濃へ使者を派遣し、不破関の封鎖を命じたという。
そして僅か十数人で吉野を発つと、近江に残っていた自身の皇子達と合流しつつ、
6月27日には伊勢湾岸のルートで不破関近くの野上に到着。
ここに行宮(あんぐう)を設けたという。
それにしても、近江から東国への玄関口・不破関の封鎖を命じたのは、既に近江朝を離れ隠棲していた大海人皇子だったのだが、明らかに近江朝への敵対行動であるこの命令に、美濃や尾張の豪族は何故すんなりと従ったのか、おわかりであろうか…?
歴史は常に動いている。