『日本書紀』によると
671年、天智天皇は息子“大友皇子”を、
“太政大臣”に任命したという。

隋~唐といった大陸風の官制が整備されつつあったこの時代、おそらく、これが日本史上初の“太政大臣”であろう。

この時点で“東宮皇太弟”であった大海人皇子の権限を、“太政大臣”たる大友皇子が上回ってしまったものと思われる。

因みに、天平勝宝3年(751年)の成立とされている漢詩集
『懐風藻』
の中には、大友皇子は博識で人望も有ったという略伝が書かれている。

何故、この様に評され、天智天皇を父とする大友皇子が“皇太子”では無いのであろうか?

そこには、一つ重大な問題が有ったようだ。

当時、皇位継承には母親の身分という物が大きく関わっていたという。

もっと具体的に言えば、母親が皇族出身でなければ、皇位継承権が無かったというのである。

結果、“皇太子”不在の中、
“東宮皇太弟”と
“太政大臣”
という、
微妙な関係の権力者が並び立つ事となってしまう。


歴史は常に動いている。