国家の認める正史『日本書紀』では、
大海人皇子の名が明確に記されるのは、
AD668年からである。
668年というのは、白村江で百済復興の援軍として出兵した倭水軍が、唐・新羅連合軍の前に大敗を喫して以来、
即位せずに“称制”という形で国の舵取をしてきた
中大兄皇子が即位し、“天智天皇”と記録されるようになった年である。
『日本書紀』によると、天智天皇は即位の後、程なくすると
大海人皇子を
“東宮皇太弟”
に据えたという。
非常に微妙な表現ながら、“東宮”であったり“皇太弟”という表現が使われているところから察するに、
正式に“皇太子”が置かれていなかったこの時点では、天智天皇を除く人々の中で大海人皇子は最高権力者となったに違いない。
それ程の人物の名が、“乙巳の変”や“白村江の戦い”の時、何故、全く出て来ないのだろうか?
この、天智天皇(中大兄皇子)或いは国家の一大事において、大海人皇子はどこで何をしていたのだろうか?
少なくとも、『日本書紀』には一切書かれていないのだ。
歴史は常に動いている。
大海人皇子の名が明確に記されるのは、
AD668年からである。
668年というのは、白村江で百済復興の援軍として出兵した倭水軍が、唐・新羅連合軍の前に大敗を喫して以来、
即位せずに“称制”という形で国の舵取をしてきた
中大兄皇子が即位し、“天智天皇”と記録されるようになった年である。
『日本書紀』によると、天智天皇は即位の後、程なくすると
大海人皇子を
“東宮皇太弟”
に据えたという。
非常に微妙な表現ながら、“東宮”であったり“皇太弟”という表現が使われているところから察するに、
正式に“皇太子”が置かれていなかったこの時点では、天智天皇を除く人々の中で大海人皇子は最高権力者となったに違いない。
それ程の人物の名が、“乙巳の変”や“白村江の戦い”の時、何故、全く出て来ないのだろうか?
この、天智天皇(中大兄皇子)或いは国家の一大事において、大海人皇子はどこで何をしていたのだろうか?
少なくとも、『日本書紀』には一切書かれていないのだ。
歴史は常に動いている。