延暦24年、青竜寺の恵果が亡くなるり、年が明けるとすぐに、空海は全ての弟子を代表して
恵果顕彰碑文を起草したという。

その後は長安を離れ、土木技術や薬学等を学んだらしい。

同年中、入唐時に遭難して日本に戻った後に再入唐していた遣唐使判官・高階遠成が帰国する船に便乗し、唐を離れたようだ。

途中、嵐に遭うも、五島列島福江島に寄港。
ここに在る大宝寺の虚空蔵菩薩に参篭中に、密教が日本国家に必要であると確信したという。

大同元年(806年)10月、空海は大宰府に到着。

この時、桓武天皇は3月に既に崩御し、平城天皇が即位していた。


歴史は常に動いている。