空海が参加した延暦23年(804年)の遣唐使には、先の記事にも書いたとおり、既に内供奉禅師として高位に在った最澄も加わっていた。
この時の船団は4隻。
遣唐大使・橘逸勢の乗る第一船には空海、第二船には最澄。
この船団のうち、第三船、第四船は嵐により遭難し、唐にはたどり着けなかったという。
後に、平安仏教の二大巨頭となる二人が50%の確率で助かったのは、何かを暗示していたのかも知れない。
ただ、唐にたどり着いた2隻のうち、最澄の乗る第二船はすぐに上陸が許されたものの、事もあろうに“遣唐大使”の乗る第一船は、海賊の嫌疑をかけられ、一ヶ月以上も上陸が許されなかったらしい。
そしてこの時、遣唐大使・橘逸勢に代わり、空海が唐政府への嘆願書を書いた事により、海賊の嫌疑が晴れたという逸話が残っている。
歴史は常に動いている。
この時の船団は4隻。
遣唐大使・橘逸勢の乗る第一船には空海、第二船には最澄。
この船団のうち、第三船、第四船は嵐により遭難し、唐にはたどり着けなかったという。
後に、平安仏教の二大巨頭となる二人が50%の確率で助かったのは、何かを暗示していたのかも知れない。
ただ、唐にたどり着いた2隻のうち、最澄の乗る第二船はすぐに上陸が許されたものの、事もあろうに“遣唐大使”の乗る第一船は、海賊の嫌疑をかけられ、一ヶ月以上も上陸が許されなかったらしい。
そしてこの時、遣唐大使・橘逸勢に代わり、空海が唐政府への嘆願書を書いた事により、海賊の嫌疑が晴れたという逸話が残っている。
歴史は常に動いている。