弘仁9年(818年)、最澄は東大寺戒壇院で受けた具足戒を自ら破棄した。
それに伴い、大乗菩薩戒での授戒と、比叡山の戒壇院設立を朝廷に願い出たという。
この大乗戒壇院の設立奏上文を、
“山家学生式(さんげがくしょうしき)”
と称す。
“山家学生式”の中では、
『一隅を照らす心ある人こそが“国宝”であり、この“人”を育てる事こそが国の為になる。』
と、説かれている。
弘仁13年(822年)6月4日、最澄56歳時、大乗戒壇院設立が認められないまま、比叡山でその生涯を終える。
しかしその7日後、弟子の光定と、時の右大臣(うだいじん/朝臣のナンバーツー)・藤原冬嗣の尽力により、嵯峨天皇から比叡山大乗戒壇院の勅許が下りた。
その5年後に比叡山大乗戒壇院は完成し、後の仏教界に影響を与える数々の名僧を輩出する事になる。
そして最澄の死後44年、貞観8年(866年)には、清和天皇により
『伝教大師(でんぎょうだいし)』
という諡号が贈られたのである。
歴史は常に動いている。
それに伴い、大乗菩薩戒での授戒と、比叡山の戒壇院設立を朝廷に願い出たという。
この大乗戒壇院の設立奏上文を、
“山家学生式(さんげがくしょうしき)”
と称す。
“山家学生式”の中では、
『一隅を照らす心ある人こそが“国宝”であり、この“人”を育てる事こそが国の為になる。』
と、説かれている。
弘仁13年(822年)6月4日、最澄56歳時、大乗戒壇院設立が認められないまま、比叡山でその生涯を終える。
しかしその7日後、弟子の光定と、時の右大臣(うだいじん/朝臣のナンバーツー)・藤原冬嗣の尽力により、嵯峨天皇から比叡山大乗戒壇院の勅許が下りた。
その5年後に比叡山大乗戒壇院は完成し、後の仏教界に影響を与える数々の名僧を輩出する事になる。
そして最澄の死後44年、貞観8年(866年)には、清和天皇により
『伝教大師(でんぎょうだいし)』
という諡号が贈られたのである。
歴史は常に動いている。