大同元年(806年)、日本における天台宗が開宗した後、朝廷が期待する“密教”の研究不足を痛感していた最澄は、自分よりも若く格下である一人の僧侶に、密教関係の書を借りてその研究を始める。
最澄よりもずっと“格下”であったこの僧侶こそ、唐で密教を集中的に学んで帰国した
『空海』だった。
この頃の朝廷は、桓武天皇の病をはじめ国家の危機を救うには“密教”の儀式・祈祷が必要だと考えており、空海はこれを完璧にマスターしていた為、一躍有名人となっていたらしい。
(空海のここまでの足跡は、いずれまたお話するので、ここでは割愛しよう。)
そして弘仁3年(812年)、最澄は一つの決断をする…。
歴史は常に動いている。
最澄よりもずっと“格下”であったこの僧侶こそ、唐で密教を集中的に学んで帰国した
『空海』だった。
この頃の朝廷は、桓武天皇の病をはじめ国家の危機を救うには“密教”の儀式・祈祷が必要だと考えており、空海はこれを完璧にマスターしていた為、一躍有名人となっていたらしい。
(空海のここまでの足跡は、いずれまたお話するので、ここでは割愛しよう。)
そして弘仁3年(812年)、最澄は一つの決断をする…。
歴史は常に動いている。