805年に帰国した最澄は、
同年7月に平安京に入る。
この頃、桓武天皇は病に臥しており、尚且つ朝廷の要職に就いていた貴族達は、現世利益を実現できる可能性の有る“密教”の力に期待していたという。
結果的に、最澄は密教の祈祷・儀式を朝廷の為に執り行う事となってしまった。
ただし、最澄が学んだ密教は、天台教学を学んだ後に駆け足で流した程度の物であり、やはり不完全と言わざるを得ない代物であった。
最澄は自身が信じて学んで来た法華経中心の天台教学よりも、ついでにかじった程度の密教の方が求められていたという事実に直面し、相当なジレンマを感じたに違いない。
歴史は常に動いている。
同年7月に平安京に入る。
この頃、桓武天皇は病に臥しており、尚且つ朝廷の要職に就いていた貴族達は、現世利益を実現できる可能性の有る“密教”の力に期待していたという。
結果的に、最澄は密教の祈祷・儀式を朝廷の為に執り行う事となってしまった。
ただし、最澄が学んだ密教は、天台教学を学んだ後に駆け足で流した程度の物であり、やはり不完全と言わざるを得ない代物であった。
最澄は自身が信じて学んで来た法華経中心の天台教学よりも、ついでにかじった程度の密教の方が求められていたという事実に直面し、相当なジレンマを感じたに違いない。
歴史は常に動いている。