朝廷に重用される様になった最澄は、
延暦21年(802年)、短期留学に当たる環学生(げんがくしょう)として遣唐使に加わるよう命じられる。
そしてその2年後の延暦23年(804年)の遣唐使船団第二船に乗る事となるのだが、実はこの時、第一船には、後に弘法大師と呼ばれるようになる“空海”が乗っていたのである。
この時、最澄と空海は顔を合わせる機会は無かったようであるが、後に南都六宗とは一線を画する事になる二大宗派の開祖が同じ遣唐使団に加わっていたとは、運命的な出来事であろう。
歴史は常に動いている。
延暦21年(802年)、短期留学に当たる環学生(げんがくしょう)として遣唐使に加わるよう命じられる。
そしてその2年後の延暦23年(804年)の遣唐使船団第二船に乗る事となるのだが、実はこの時、第一船には、後に弘法大師と呼ばれるようになる“空海”が乗っていたのである。
この時、最澄と空海は顔を合わせる機会は無かったようであるが、後に南都六宗とは一線を画する事になる二大宗派の開祖が同じ遣唐使団に加わっていたとは、運命的な出来事であろう。
歴史は常に動いている。