801年、最澄は『“高雄山”神護寺』に於いて、南都六宗の僧侶達に
“法華経”の講義をしたという。

これを計画・立案したのは、当時、式部少輔であり、大学別当を兼任していた『和気広世』だと言われている。

和気広世は、かつて『弓削道鏡』が皇位を狙った時に、宇佐八幡宮の神託を持ち帰り、その野望を阻止した『和気清麻呂』の息子である。

この時、広世が就いていた役職“式部少輔”とは、今ならさしずめ“人事院”に相当するであろう“式部省”という役所の第三席であり、
“大学別当”とは、式部省直轄の官僚教育・育成組織である“大学寮”の長官である。

父・和気清麻呂と同様に秀才の呼び声高かった和気広世は、当時は和気氏の氏寺であった神護寺で南都六宗の僧侶達に対する講習会を開き、
その講師として最澄を採用する事により、道鏡の様に国家権力に近付き過ぎた南都六宗を抑え込もうと考えたらしい。


歴史は常に動いている。