東大寺戒壇院で“受戒”した最澄だったが、その三ヶ月後、奈良から離れ
比叡山に篭ったという。
同時に、南都六宗の在り方に疑問を感じ、自身の反省並びに修行者としての決意を書き残したとか。
これは、現在の天台宗にも
“発願文(ほつがんもん)”
として伝わっている。
最澄は、鑑真が日本に伝えた仏教書の中でも、大陸における天台宗の開祖とされる
“天台大師”の物をよく読んでいたらしい。
天台大師は“法華経”を最重要経典と考えていたというので、最澄もまた、法華経に傾倒したのであろう。
歴史は常に動いている。
比叡山に篭ったという。
同時に、南都六宗の在り方に疑問を感じ、自身の反省並びに修行者としての決意を書き残したとか。
これは、現在の天台宗にも
“発願文(ほつがんもん)”
として伝わっている。
最澄は、鑑真が日本に伝えた仏教書の中でも、大陸における天台宗の開祖とされる
“天台大師”の物をよく読んでいたらしい。
天台大師は“法華経”を最重要経典と考えていたというので、最澄もまた、法華経に傾倒したのであろう。
歴史は常に動いている。