天平勝宝6年(754年)4月、鑑真は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、この時には孝謙天皇に譲位し既に太上天皇になっていた聖武上皇をはじめ
430人に授戒を行ったという。
そして、翌、天平勝宝7年(755年)東大寺戒壇院が完成し、正式な授戒施設がスタートしたのである。
この後、医薬にも通じていたという鑑真は、天平勝宝8年(756年)に聖武上皇が崩御するまで看病禅師として東大寺に寄宿していたようだが、その後は大僧都(だいそうず)に任じられたという。
しかし2年後、病を理由に大僧都を辞すると、“唐律招提”という寺を建立し、弟子達と居住した。
後の“唐招提寺”である。
その後、鑑真は筑紫観音寺・下野薬師寺にも戒壇を築き、東大寺戒壇院と合わせて
“日本三戒壇”
と呼ばれる事となる。
歴史は常に動いている。
430人に授戒を行ったという。
そして、翌、天平勝宝7年(755年)東大寺戒壇院が完成し、正式な授戒施設がスタートしたのである。
この後、医薬にも通じていたという鑑真は、天平勝宝8年(756年)に聖武上皇が崩御するまで看病禅師として東大寺に寄宿していたようだが、その後は大僧都(だいそうず)に任じられたという。
しかし2年後、病を理由に大僧都を辞すると、“唐律招提”という寺を建立し、弟子達と居住した。
後の“唐招提寺”である。
その後、鑑真は筑紫観音寺・下野薬師寺にも戒壇を築き、東大寺戒壇院と合わせて
“日本三戒壇”
と呼ばれる事となる。
歴史は常に動いている。