自ら日本へ行こうとする鑑真に対し、大唐帝国はこれを禁止する。
この頃、仏教は中国史上最大の繁栄期を迎えていただけに、唐王朝が戒律の研究をしている重要人物を手放したくないと考えたのは当然と言えよう。
結果、鑑真一行には“密航”という選択肢しか無くなったのである。
密航は5回も失敗し、その間に、日本から授戒師を求めて唐に渡った栄叡は病死してしまった。
しかし、ついに天平勝宝2年(750年)、唐に到着した遣唐使船に乗る事に成功し、
天平勝宝5年(753年)末、薩摩に到着し、
翌年2月、ようやく平城京に入ったという。
そして同年4月、鑑真は聖武天皇に対し“授戒”したようだ。
こうして、鑑真一行は艱難辛苦の末に、新天地で“授戒”するという悲願達成の第一歩を踏み出したのである。
歴史は常に動いている。
この頃、仏教は中国史上最大の繁栄期を迎えていただけに、唐王朝が戒律の研究をしている重要人物を手放したくないと考えたのは当然と言えよう。
結果、鑑真一行には“密航”という選択肢しか無くなったのである。
密航は5回も失敗し、その間に、日本から授戒師を求めて唐に渡った栄叡は病死してしまった。
しかし、ついに天平勝宝2年(750年)、唐に到着した遣唐使船に乗る事に成功し、
天平勝宝5年(753年)末、薩摩に到着し、
翌年2月、ようやく平城京に入ったという。
そして同年4月、鑑真は聖武天皇に対し“授戒”したようだ。
こうして、鑑真一行は艱難辛苦の末に、新天地で“授戒”するという悲願達成の第一歩を踏み出したのである。
歴史は常に動いている。