蘇我馬子を中心に組織された“物部守屋追討軍”の中に、
当時13歳の厩戸皇子(聖徳太子)も加わっていたという。
“仏教受容”という点においては、蘇我馬子と厩戸皇子の考えは一致していたようだ。
物部守屋が築いた“稲城”を突破出来ずに押し戻された追討軍を見た厩戸皇子は、霊木から四天王像(多聞天・持国天・広目天・増長天)を彫り、束髪於額(ヒサゴハナ)という童子の髪型になって
『もし、我々を勝たせてくれたら、護世四王(四天王)の為に寺を建立しましょう。』
と、戦勝祈願をしたという。
この時、何故、厩戸皇子は敢えて童子の姿になったのか?
それは、追討軍を押し戻したのが“稲城”の呪力だと見て取った厩戸皇子が、同じく呪力をぶつけて稲城の呪力を無効化しようとしたからに他ならない。
何故、童子姿に呪力があるのか?
当時は、出産の科学的根拠までは知られておらず、尚且つ子供の驚異的成長に到るまでもが神の為せる業=子供は神に近い存在…と、考えられていたからである。
果たして、追討軍は稲城を突破し、物部守屋はついに討たれ、物部本宗家は滅亡したのである。
そして、戦勝祈願が成就すると、厩戸皇子は寺を建立した。
現在、大阪市天王寺区にある“四天王寺”が、それである。
歴史は常に動いている。
当時13歳の厩戸皇子(聖徳太子)も加わっていたという。
“仏教受容”という点においては、蘇我馬子と厩戸皇子の考えは一致していたようだ。
物部守屋が築いた“稲城”を突破出来ずに押し戻された追討軍を見た厩戸皇子は、霊木から四天王像(多聞天・持国天・広目天・増長天)を彫り、束髪於額(ヒサゴハナ)という童子の髪型になって
『もし、我々を勝たせてくれたら、護世四王(四天王)の為に寺を建立しましょう。』
と、戦勝祈願をしたという。
この時、何故、厩戸皇子は敢えて童子の姿になったのか?
それは、追討軍を押し戻したのが“稲城”の呪力だと見て取った厩戸皇子が、同じく呪力をぶつけて稲城の呪力を無効化しようとしたからに他ならない。
何故、童子姿に呪力があるのか?
当時は、出産の科学的根拠までは知られておらず、尚且つ子供の驚異的成長に到るまでもが神の為せる業=子供は神に近い存在…と、考えられていたからである。
果たして、追討軍は稲城を突破し、物部守屋はついに討たれ、物部本宗家は滅亡したのである。
そして、戦勝祈願が成就すると、厩戸皇子は寺を建立した。
現在、大阪市天王寺区にある“四天王寺”が、それである。
歴史は常に動いている。