欽明天皇の次の代、敏達天皇13年(584年)、百済から菩薩像が贈られて来たという。

敏達天皇は蘇我稲目の子・蘇我馬子にこれを預け、奉る事を許した。

しかし、またも疫病が流行り、物部尾輿の子・物部守屋は父と同様、仏教受容が疫病の原因として、敏達天皇から許可を得てこの菩薩像を火中に投じると同時に尼僧を鞭で打ったのである。

ところが、今度は少し事情が違っていた。

病人達が
『体が火で焼かれる様に熱く、鞭で打たれる様に痛い!』
と言い出したというのだ。

これは菩薩像を火中に投じ尼僧を鞭で打った仏罰だと考えた敏達天皇は、改めて蘇我馬子に仏教信仰の指示を出したようだ。

これを受けて馬子は飛鳥に元興寺(飛鳥寺)を建て、これはやがて蘇我氏の氏寺となった。

氏寺はそれまでに存在した先祖崇拝の延長線上に考えられたようだが、同時に建立者の権威の象徴にもなり、次第に他の氏族も蘇我氏に倣い氏寺を建てるようになって行ったようである。


歴史は常に動いている。