百済から仏教が入って来た後、国論が二分されてしまう。

“我が国の万物に宿る神々を奉っているからこそ、わが大王がこの国に君臨している。
今から外国の神を奉ったら、古来から奉ってきた神の怒りに触れるに違いない。”

これが、朝廷内の儀式を取り仕切るトップであった大連(おおむらじ)・物部尾輿の持論であった。

それに対し、政治的実務を取り仕切るトップであった大臣(おおおみ)・蘇我稲目は

“大陸諸国では、仏の道を学んでいる。
我が国だけが別の道を歩んでいて良いのか?”

という考えを持っていたという。

この時、欽明天皇は蘇我稲目に仏像を預け、奉る事を許したのだが、やがて疫病が流行ってしまったらしい。

すると、この疫病を仏教受容のせいだと考えた物部尾輿を中心とする排仏派は、なんとこの仏像を海に投げ捨ててしまったそうだ。

これは、長きにわたる権力闘争の序章である…。


歴史は常に動いている。