18万にも及ぶ元軍を撃退すると、同年中に鎌倉では二度目の高麗出兵計画が考案されたという。
弘安の役では鎮西奉行として戦い、息子は戦死し、自身も負傷した太宰少弐・少弐経資を大将として、九州の御家人のみならず京の大寺院が抱える僧兵にまで動員を掛けようとしていたらしい。
しかし、やはり勝ち戦とは言え経済的に得る物の無かった弘安の役直後の事で、御家人達の困窮が激しかった為に、ついに高麗遠征は実行される事は無かった。
一方、大元ウルスでは、
弘安の役の六年後の1287年、“征東行省”が再建され、三度目の日本遠征が計画されていたという。
しかし、同年中に西方や北方を任されていたフビライの従兄弟達の反乱が相次ぎ、これを鎮圧するも、今度は属国となっていた南方の陳朝大越国(現在のベトナム北部)で反乱が起こり、こちらの鎮圧軍は大打撃を受けてしまったのである。
こうして自国の足元が危うくなった大元ウルスであるが、フビライは最後まで日本遠征を画策していたらしい。
しかし、そのフビライも1294年に没し、
後を継いだテムルが1298年、正式に日本遠征の中止を表明したという。
因みにこの頃の日本国内では、鎌倉の霜月騒動や、その余波で太宰少弐の職にあった少弐家の家督争いが有り、相変わらず謀略~内乱が続いていたようである。
歴史は常に動いている。
弘安の役では鎮西奉行として戦い、息子は戦死し、自身も負傷した太宰少弐・少弐経資を大将として、九州の御家人のみならず京の大寺院が抱える僧兵にまで動員を掛けようとしていたらしい。
しかし、やはり勝ち戦とは言え経済的に得る物の無かった弘安の役直後の事で、御家人達の困窮が激しかった為に、ついに高麗遠征は実行される事は無かった。
一方、大元ウルスでは、
弘安の役の六年後の1287年、“征東行省”が再建され、三度目の日本遠征が計画されていたという。
しかし、同年中に西方や北方を任されていたフビライの従兄弟達の反乱が相次ぎ、これを鎮圧するも、今度は属国となっていた南方の陳朝大越国(現在のベトナム北部)で反乱が起こり、こちらの鎮圧軍は大打撃を受けてしまったのである。
こうして自国の足元が危うくなった大元ウルスであるが、フビライは最後まで日本遠征を画策していたらしい。
しかし、そのフビライも1294年に没し、
後を継いだテムルが1298年、正式に日本遠征の中止を表明したという。
因みにこの頃の日本国内では、鎌倉の霜月騒動や、その余波で太宰少弐の職にあった少弐家の家督争いが有り、相変わらず謀略~内乱が続いていたようである。
歴史は常に動いている。