弘安4年7月30日の夜、北九州に嵐が訪れ、5日間に渡って海が荒れたという。
これは北九州周辺海上に展開していた元軍艦船群に大ダメージを与えたようである。
鷹島に移動していた元軍主力の中では、
江南軍ナンバーツーに当たる左丞・李庭の乗る船が沈み、船の破片に掴まり鷹島にたどり着き、
江南軍総管・楚鼎の船も航行不能に陥り、三日三晩の漂流の後、江南軍ナンバーワンに当たる右丞・笵文虎の船に合流したらしい。
また、東路軍左副元帥・アラチルムは溺死したという。
一方、平戸島に残っていた江南軍都元帥・張禧が率いる船団は、艦船の間に距離を取って停泊していた為に、被害は無かったとされている。
同じく江南軍都元帥・ナンギャダイ率いる船団にも、嵐による被害は報告されていないようだ。
また、東路軍管軍万戸・イェスダルの率いる船団も、嵐の圏外にいたのだろうか、撤退時には一隻の船も失っていなかったらしい。
このように、5日間に渡って海が荒れたと記録されているにも拘わらず、元軍船団の被害には格差が有る所から、最近ではこの時の嵐は広範囲の暴風圏を持つ“台風”ではなく、もっと暴風圏の狭い、それでいて勢力は台風と同等かそれ以上にもなるという“爆弾低気圧”だったという説も出ている。
歴史は常に動いている。
これは北九州周辺海上に展開していた元軍艦船群に大ダメージを与えたようである。
鷹島に移動していた元軍主力の中では、
江南軍ナンバーツーに当たる左丞・李庭の乗る船が沈み、船の破片に掴まり鷹島にたどり着き、
江南軍総管・楚鼎の船も航行不能に陥り、三日三晩の漂流の後、江南軍ナンバーワンに当たる右丞・笵文虎の船に合流したらしい。
また、東路軍左副元帥・アラチルムは溺死したという。
一方、平戸島に残っていた江南軍都元帥・張禧が率いる船団は、艦船の間に距離を取って停泊していた為に、被害は無かったとされている。
同じく江南軍都元帥・ナンギャダイ率いる船団にも、嵐による被害は報告されていないようだ。
また、東路軍管軍万戸・イェスダルの率いる船団も、嵐の圏外にいたのだろうか、撤退時には一隻の船も失っていなかったらしい。
このように、5日間に渡って海が荒れたと記録されているにも拘わらず、元軍船団の被害には格差が有る所から、最近ではこの時の嵐は広範囲の暴風圏を持つ“台風”ではなく、もっと暴風圏の狭い、それでいて勢力は台風と同等かそれ以上にもなるという“爆弾低気圧”だったという説も出ている。
歴史は常に動いている。