弘安4年7月中旬、平戸島で合流した東路軍と江南軍は、平戸島に4000名を残すと、鷹島へ移動したらしい。

ここから元軍の謎の行動となるのだが、鷹島に主力を移動させると、なぜかここで土塁等を築いて留まったという。

鷹島を太宰府攻撃の為の前線基地として確保したかったのか、或いは他の理由があったのか…?

7月27日、鷹島に停泊していた元軍船団に対し、日本軍の夜襲があったらしい。

そして夜明けと共に、日本軍は素早く撤退したと言うのだが、この鷹島の海戦については、不思議な事に日本側の記録には一切書かれていないのである。

因みにこの日、元軍の招討使(日本風に言えば、中央から派遣された軍監といったところか?)・クドゥハスが戦死したという。


歴史は常に動いている。