正確な日時までは記録されていないが、
弘安4年(1281年)6月下旬頃、旧南宋軍を中心とし、
水夫まで数えれば14万にも達する大部隊がついに出航したという。

そんな最中、壱岐に退いていた東路軍に対し、
6月29日と7月2日、日本軍の追撃戦が展開されていたようだ。

この時、日本側で名を残したのは

薩摩御家人・島津長久
(江戸幕府終焉まで薩摩潘主だった島津家の先祖で、この頃は薩摩守護だった島津久経の血縁者か?)
薩摩御家人・比志島時範
肥前御家人・山代栄
肥前御家人・龍造寺家清(江戸時代初頭に家名断絶し、家老・鍋島家に領国を引き継がれた戦国大名・龍造寺家の先祖か?)

と、いったところである。

壱岐でも苦戦続きだったという東路軍は、江南軍先遣隊から合流地点を平戸島に変更するという知らせが届くと、壱岐を放棄し、全軍平戸へ向かったらしい。

こうして壱岐を奪還した日本軍だったが、この時、鎮西奉行だった少弐経資が負傷し、その息子・資時が戦死したという。


歴史は常に動いている。