日本軍が海の中道から志賀島に停泊する元船に攻撃を始めた頃、
時を同じくして海上から志賀島を目指す兵船団が有った。

義務教育の歴史教科書でもお馴染みの
『蒙古襲来絵詞』
を見ると、
この船団には

関東御使・合田遠俊
筑前御家人・秋月種宗
筑後御家人・草野経永
肥前御家人・福田兼重&兼光親子
肥後御家人・竹崎季長
肥後御家人・大矢野種保&種村
伊予御家人・河野通有

といった名が見られる。

この時の戦いでは、伊予御家人・河野通有が元軍の石弓(弩に似た、矢ではなく石を発射できる武器)により負傷しながらも元船に斬り込み、下士官らしき相手を生け捕りにする程の手柄を立てたという。

この日の日本軍の陸海二面作戦により、元軍はじりじりと後退し、果ては防御に徹するハメになり、
ついに翌6月9日、志賀島を諦め、壱岐まで後退してしまったのである。

当初の予定通り、東路軍は壱岐で江南軍の大部隊を待つ事にしたようだ。


歴史は常に動いている。