弘安4年(1281年)6月8日の午前、
日本軍が博多から“海の中道”を疾走し、志賀島に停泊中の元軍船団に攻め寄せたという。

これに対し、元軍は船から“弩兵”を降ろして応戦し、
日本軍には300騎程の損害が出たらしい。

しかし、元軍の弩兵部隊は抗しきれずに敗走し、
東征都元帥(東路軍司令官)・洪茶丘が討ち死にするかという危機にまで追い込まれたようだ。

この時、少し沖に停泊していた元軍船団からの増援がようやく上陸し、洪茶丘は辛くも逃げ切ったという有様だったらしい。

しかし、何故こうもあっさり元軍は船に逃げ帰る事になったのか。

前出の両軍の弓の比較を書いたブログを御記憶であろうか?

この志賀島の戦いで、弓を持ちながら馬に乗りそのまま騎射するつもりで疾走して来た日本軍に対し、元軍は日本には無い超遠距離からの曲射を得意とする“弩兵”部隊をまず上陸させ、和弓の届かない超遠距離からの曲射を浴びせた。

予定では、この弩の曲斉射で日本軍の足を止められるはずだったのだろう。

実際、日本軍は300騎程が倒れた。
しかし、日本軍の足は止まらず、元軍の弩兵が二撃目を用意出来ないうちに、日本軍の騎射できる距離まで詰められてしまったのである。

この時点で、弩兵しか上陸させていなかった元軍は大混乱に陥ったに違いない。

結果、東路軍司令官が命からがら船に逃げ帰る事となったのであろう。

自軍の射程距離外から飛来する矢の雨で多数の兵が倒れたのを見ても、なお前進を止めない軍勢を元軍が目の当たりにしたのは、これが初めてだったのではなかろうか。


歴史は常に動いている。