壱岐を征圧した東路軍は、ここで江南軍の大部隊と合流してから博多湾を目指す予定だったが、
捕虜にしていた対馬や壱岐の島民から
“日本軍は蒙古襲来に備えて太宰府から北に移動した。”
旨の情報を得たので、江南軍の到着を待たずに博多湾奥へ侵入し、一気に太宰府に攻め入る作戦へと変更したらしい。
しかし、既に防塁が築かれていた為に、博多湾岸からの上陸を諦め、
6月6日、陸続きの志賀島に上陸し、この近辺に船団を停泊させたという。
そして6月8日の朝、志賀島の東路軍船団に対し、日本軍からの攻撃が始まる…。
歴史は常に動いている。
捕虜にしていた対馬や壱岐の島民から
“日本軍は蒙古襲来に備えて太宰府から北に移動した。”
旨の情報を得たので、江南軍の到着を待たずに博多湾奥へ侵入し、一気に太宰府に攻め入る作戦へと変更したらしい。
しかし、既に防塁が築かれていた為に、博多湾岸からの上陸を諦め、
6月6日、陸続きの志賀島に上陸し、この近辺に船団を停泊させたという。
そして6月8日の朝、志賀島の東路軍船団に対し、日本軍からの攻撃が始まる…。
歴史は常に動いている。