龍ノ口でフビライからの使者を斬首した鎌倉幕府であったが、
翌1276年3月、逆襲の為に高麗へ出兵する計画が動き出したようだ。
文永の役の直前に少弐資能から家督を受け継ぎ、北九州地域から対馬に至るまでの守護となっていた少弐経資を中心に、西国に動員を掛け、博多に軍勢・船・水夫等を集めたのである。
幕府は各御家人に、動員した水夫の名前や年齢、船の数等を申告させ、逃亡者には厳罰を下す等の手段まで使い、出兵計画実現に向けて準備を重ねていたという。
しかし、同時進行していた石塁の築造に人員を要し、費用も膨れ上がってしまった為、高麗出兵は幻となったのである。
歴史は常に動いている。
翌1276年3月、逆襲の為に高麗へ出兵する計画が動き出したようだ。
文永の役の直前に少弐資能から家督を受け継ぎ、北九州地域から対馬に至るまでの守護となっていた少弐経資を中心に、西国に動員を掛け、博多に軍勢・船・水夫等を集めたのである。
幕府は各御家人に、動員した水夫の名前や年齢、船の数等を申告させ、逃亡者には厳罰を下す等の手段まで使い、出兵計画実現に向けて準備を重ねていたという。
しかし、同時進行していた石塁の築造に人員を要し、費用も膨れ上がってしまった為、高麗出兵は幻となったのである。
歴史は常に動いている。