元冦の時の、日本軍と元軍の弓についてのコメントを頂いていたので、文永の役の博多近辺での初戦時における両軍の弓について考えてみたい。

私の昔の同僚で、弓道経験の有る者に聞いてみたところ、

和弓の有効射程距離は

直径20cm程度の的なら約30m。
実物大の人形なら50m。
騎馬兵並の大きさなら70m。

と、いったところらしい。

勿論、伝説の那須与一や鎮西八郎為朝の様な、強弓を持ちそれを自在に扱う力のある者は例外である。

対して、元軍の弓だが、弓そのものは、弦を外すと反対側に反り返るほど強靭な造りだったそうであるが、矢が木の削り出しであり、日本の竹を焙った矢よりも重い為、直射に限って言えば、日本軍の物と有効射程距離はほぼ同じであったとされている。

ただし、赤坂丘陵の戦いの場合、元軍の方が高台に布陣していた為、若干有利だったと思われる。

加えて、元軍には漢人が持っていた“弩”という物も有った。

この“弩”だが、西洋のクロスボウの様な物と言えばお分かり頂けるだろう。

“弩”は、射程距離は長いのだが、地面に立てて足で弦を押し下げてから矢を装填しなければならず、正直、弩だけしか持っていなかった場合は連射が出来ないので、射程の短い通常の弓に負ける可能性が大きい。

ただし、複合的に運用されると、日本軍にとって大きな脅威になったであろう。

則ち、まず遠距離から“弩”の集団により、“曲射”で矢を射かける。
その間に、連射できる短弓兵が距離を詰めて行く…といった戦法である。

ところが、菊池武房が元軍陣地に気付かれずに接近、先駆けを行い、これが成功した為、もはや“弩”の有利性が発揮できる場面は無くなってしまったと考えられる。

もし、文永の役で“弩”がまともに運用されていたら、日本軍は大打撃を被っていた可能性もあるが、肥後御家人・菊池武房の先駆けにより、その危機は除かれたのかも知れない。


歴史は常に動いている。