『高麗史』“金方慶”伝によれば、博多近辺で日本軍と戦闘を繰り広げた日の夜、船に戻った元軍の最高司令官であった征東都元帥・クドゥンに対し、
高麗軍司令官である都督使・金方慶が
“自軍は数で劣っていても既に敵軍の中に居る。
[背水の陣]の故事に倣い、戦いに出たい。”
旨を伝えたという。
それに対し、クドゥンは
“少兵が力量度外視で頑張っても、多兵の前には結果的に不利でしかない。
日毎に増えるであろう敵軍(日本軍)とこのまま戦い続けるのは得策ではないので、撤退すべきである。”
と、答えたらしい。
結果、日本遠征軍は撤退を決めたというのだが、その撤退途上、海上で嵐に遇い、多くの船が沈んだという。
高麗には、13500人程が還らなかったとされている。
この記述によれば、決して博多湾で嵐に遇ったわけでは無いようである。
なお、現代のカレンダーに換算すると、
この時は11月。
嵐があったとしても、それは“台風”とは考えにくいとする説が一般的であろう。
歴史は常に動いている。
高麗軍司令官である都督使・金方慶が
“自軍は数で劣っていても既に敵軍の中に居る。
[背水の陣]の故事に倣い、戦いに出たい。”
旨を伝えたという。
それに対し、クドゥンは
“少兵が力量度外視で頑張っても、多兵の前には結果的に不利でしかない。
日毎に増えるであろう敵軍(日本軍)とこのまま戦い続けるのは得策ではないので、撤退すべきである。”
と、答えたらしい。
結果、日本遠征軍は撤退を決めたというのだが、その撤退途上、海上で嵐に遇い、多くの船が沈んだという。
高麗には、13500人程が還らなかったとされている。
この記述によれば、決して博多湾で嵐に遇ったわけでは無いようである。
なお、現代のカレンダーに換算すると、
この時は11月。
嵐があったとしても、それは“台風”とは考えにくいとする説が一般的であろう。
歴史は常に動いている。