赤坂丘陵から敗走した元軍の大部分は、百道浜近辺の麁原(そはら)の丘へと向かったようだが、一部は塚原から鳥飼潟(とりかいがた)を経由して麁原の本体に合流を試みたらしい。

この鳥飼潟で、よく学校教科書に載っている“蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)”に描かれている肥後御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)の奮戦が見られる事となる。

鳥飼潟経由で麁原へ向かっていた元軍の小隊を追撃していた竹崎季長であったが、そこに麁原の元軍本隊が駆け降りて来たという。

ここで竹崎季長は、後続の日本勢を待たずに、手柄を立てる好機とばかりに、圧倒的多数の元軍本隊に対し“先駆け”を敢行したのである。

季長はこの先駆けで矢傷を受け、窮地に陥ったとされるが、ここで後続の肥前御家人・白石通泰や福田兼重らが到着し、百道浜のすぐ内側であろうか、当時は湿地帯だったという百道原(ももちはら)まで元軍を追い落としたという。

なお、この鳥飼潟の戦いでは、騎射戦で元軍の征東左副元帥・劉復亨と思しき将軍を射落とし、重傷を負わせたらしい。

日本勢、意外と善戦である…。


歴史は常に動いている。