赤坂丘陵の松林に布陣した元軍は、博多に布陣したまま動かない日本の軍勢を見下ろしながら何を思っていたのだろうか。

日本側の意図する、足場の良い所での“騎射勝負”を、予測していたのであろうか。

足場の良い所での騎射勝負となれば、馬の扱いに長け、日本の弓よりも射程距離が長く、かつ連写の利く弓を持っていた蒙古兵の有利は揺るぎ無い物だったであろう。

しかし、赤坂丘陵に布陣した元軍に対し、
突如100騎程の日本の軍勢が襲撃をかけたのである。

それは肥後御家人・菊池武房&有隆の兄弟であったという。

この戦いで、菊池一党は多数の犠牲を出しながらも、元軍を百道浜近辺の麁原(そはら)まで押し戻したらしい。

これは所謂“先駆け”(戦国時代初期ならば、さしずめ一番槍といった物か)という、多大な“恩賞”を得る為の最良の方法を菊池兄弟が選択した物であると想像できるのだが、この先駆けが成功したのは、元軍が博多に集結したまま動かない日本勢に気を取られていたからかも知れない。


歴史は常に動いている。