肥前の松浦党(まつらとう)は、かつては平家方の配下にあった水軍だったが、壇之浦の合戦に於いては源氏に付き、源氏の勝利に貢献したという事で鎌倉幕府御家人となり、北九州地域の地頭に任じられたという。

文永11年10月16日(1274年11月15日)、この肥前松浦党の本拠地であった
平戸島・鷹島・能古島に、
元軍が現れた。

壱岐を全滅させた勢いそのままに、肥前松浦党の拠点は次々と落とされ、
松浦党を束ねていた松浦群佐志村の地頭・佐志房(さし ふさし)は奮戦するも、三人の息子、直(なおす)・留(とむる)・勇(いさむ)共々、戦死したという。

この時、松浦党は数百人が討死、或いは捕虜となり、平戸島・鷹島・能古島は対馬や壱岐と同様の惨状であったらしい。


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